いいこと。
NOと言う前に。
NOと伝える場面は、しばしば誰にもあるものです。
ニュートラルに伝えられたらいいのですが、、得てして、yes、は言えてもnoはなぜか難しいもの。。。
そして、《そういう場面にだけ》、毅然と、ニュートラルにNOと言うのはますます難です。
noということが大切ではなく。うまく切り抜けたり、うまくお断りできるかどうか
でもなく、、
すべて必要なことを伝えあっていいよ、と、自分と相手を許せているかな?というところが大切。。◯
以前、わたしにとってどうしてもNOなことがありました。
そこで、《わたしのNOで、全体のスケジュールや空気感がおかしくなってしまうかも、、》
と考えました。
そしてNOを言わずに、うやむやにその場を離れました。
彼らのスケジュールや空気感を壊したくない、つまり、そこに自分もいたいと思いながら、
今現在、彼らが纏う空気感を、考え方を、じつは心地悪く感じている自分に気づきました。
だから、
あの人は◯◯だから、とか
こういうとこあるからこうなりたいんだろうね、スケジュールはこうだから今のこれも必要よねー、なんて、相手を分析していたのです。
じぶん自身への違和感を解消するために。
気持ちはなんだか小部屋にきゅうきゅう詰めのように狭苦しく(やってる感はある)
ああ、わたしは彼らの空気感に、嫌悪と、なにより愛着を持っていて、なにかに所属して、OKをもらいたくて、愛着を受け入れられることが、楽しいんだなぁ。
そう気づいたとき、
愛着が、少しずつ解放されていくのを感じました。
わたしたちは、仲間とともに生きる生命体です。
いっぽうで、
仲間なしには生きられないと思うほど、異和を創り出す生命体です。
あなたをうしなっても、出会うときには、必ずまた出会える。いつわりなく。
他への責任として、
そのことにだけ責任を持つことは、
すべての現実的な言動、働きがくっきりと軽やかになります。
そして、じぶんへの推進力がごまかせなくなります。
まずは、、いつでも、NOでもYESでもどちらでもなくても、いいのです。
あらゆるちからを、じぶんを愛し、癒し、育てるために使っていいのです。
そしていつか、
なにかを目的に、わたしを向き合わせることはやがて終わり、今がその和だと生きることが、起こるかもしれません。
それは終わりでもはじまりでもありません。。◯